創立1929(昭和4)年
発祥の地は、兵庫県西宮市鳴尾浜。
「この地域に、一大工業港を造る!」
そんな偉大なる目的のために、山下汽船株式会社社長の山下亀三郎は、満鉄(南満洲鉄道株式会社)に話を持ち掛け、共同出資会社を誕生させました。
それが現在の東洋建設です。
満州事変の勃発により、満鉄は当社の経営から手を引きましたが、個人が創業することの多い建設会社において、当社はちょっとユニークな生い立ちですね。
山下亀三郎の肖像
その後、一大工業港を造る「鳴尾事業」を推進すると共に、佐伯湾約50万坪の埋立工事や東京飛行場第2次埋立工事など、数々の大規模な埋立工事の請負受注を開始し順当なスタートを切りました。
しかし、日本は日中戦争や太平洋戦争など、戦乱の時代へ。
「鳴尾事業」は中断を余儀なくされましたが、当社はその混乱を乗り越え、戦後、利根川治水工事を手始めに、大規模工事を次々と受注し、業容拡大。
海上工事だけでなく、陸上工事にも果敢に挑み、戦後初の1億円を超える契約高となった尼崎競艇場をはじめ、嵯峨谷ダムや高角橋の打ち上げなど、今もなお語り継がれる歴史的大工事を手がけました。
佐伯航空隊敷地埋立工事(大分県)
利根川浚渫工事(千葉県・茨城県)
嵯峨谷ダム(鳥取県)
高角橋打上工事ゲルバー桁橋脚工(鳥取)
その後も当社の勢いはさらに加速し、
革新的な出来事を次々と巻き起こします。
河川、道路など、一般工事にも事業分野を拡大し、浚渫・港湾専業者から、総合土木業者へと進化。
当社宿願の「鳴尾事業」を再開。(約10年後に偉業達成)
鳴尾埋立地(昭和46年11月)
鳴尾埋立地(兵庫県、昭和53年1月)
現在の鳴尾浜(兵庫県)
シンガポールでオイルターミナル工事を受注し、ついに海外進出。
建築部門へ進出。
その後も、関西国際空港建設島護岸築造工事で主メンバーとして埋立工事に携わったほか、東京湾アクアライン、白島国家石油備蓄基地など後世に伝えられていく事業に参画。
阪神・淡路大震災や、東日本大震災では、当社が永年培ってきたマリコンとしての技術力を遺憾なく発揮し、復旧・復興に貢献。
近年は、東南アジアのみならず、アフリカにも進出。
関西国際空港第2期空港島
東京湾アクアライン川崎人工島
白島国家石油備蓄基地
国内でも、海外でも、世の中からの期待に応え続けてきた東洋建設。
今もなお、私たちは確かな存在感を示し続けています。