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当社は、大阪と神戸の間に位置する西宮市鳴尾浜に一大工業港を建設する目的で南満州鉄道と山下汽船が共同出資して1929(昭和4)年7月に阪神築港㈱として設立されました。
鳴尾事業1933(昭和8)年10月から工事に着手しましたが、戦争によって事業が中断、戦後の激動の時代を経て1967(昭和42)年5月に工事が再開され、1985(昭和60)年になってようやく土地の一般販売が終了しました。事業開始から販売終了まで実に50年以上の歳月を要したことになります。販売開始当初には元気の良い若手の法学部出身者が集められ、その中には入社間もない武澤社長も配属されていました。この大プロジェクトの成功は、当社の技術の粋を集め、役職員全員が一致協力しあってなし得たものであり、何物にも代えがたい財産を我々に残してくれました。
社会環境の大幅な変化にその都度適応し、幾多の困難にも不撓不屈の精神で粘り強く取り組み、かつ新しいものに挑戦するという、わが社に息づくフロンティア精神は今も生き続けています。
当社は、海上土木事業から陸上土木事業や建築事業にフィールドを広げ、日本国内のみならず海外建設事業のビッグプロジェクトにも積極的に参画しています。
会社が今後も社会の要請に応え続けるためには、常に新しい技術が求められます。それに対応するために、西は当社発祥地である鳴尾に、東は茨城県の美浦にそれぞれ技術研究所を設けています。鳴尾研究所では、自然の海の波も起こすことができる世界最大級の津波平面水槽と2本の造波水路を組み合わせ、多様な研究開発を行っています。また、民間としては世界で初めて導入したビーム型遠心力載荷模型実験装置を始め最先端の施設を揃え、海と陸が接する沿岸域を中心に社会に対して貢献できる技術を開発しています。また、美浦研究所では材料実験棟、構造実験棟、音響実験場などを有し、高性能コンクリートの開発や耐震・免震技術、防音、防振技術等の研究開発を通じ、都市環境から居住環境まで自然と調和し人々が快適に暮らせる環境づくりの実現をめざした総合的な研究を進めています。
「ローマ人の物語」の著者である塩野七生さんは、「国家がなすべきもっとも大切な事は、国民の生命と財産を守ることであり、そのためにはインフラストラクチャーの整備が重要である」と述べています。
日本では多くの自然災害が発生します。特に大地震はこの100年間で関東、阪神、東日本と3回発生し、甚大な被害をもたらしました。また、台風や集中豪雨、大雪などでの被害も毎年のように発生しています。我々建設業界は、これらの自然災害で被害を受けた地域の復興に向けて総力を挙げて取り組むと共に、常日頃から国民の生命・財産を守るため、より安心で安全な国土づくり、まちづくりに貢献しています。
また、当社は東日本大震災の復興事業において、全国各地から職員を結集し、マリコンとして今まで培ってきた技術力をもって数多くの港の復旧工事に取り組んでおり、被災地の一日もの早い復興に向けて全力を注いでいます。
企業は現状に甘んじていれば、いずれは衰退してなくなってしまいます。刻々と変化していく環境の中で、常に新しいことにチャレンジし、努力し続けなければなりません。そのためには就職してからも継続して勉強をしていくことが大切です。当社では、人材開発育成制度として様々な教育・研修プログラムを用意しています。そして海外を含め色々な場所で仕事をし、幅広く経験を積み上げてもらいます。
私は入社して32年になります。そのうち現場・営業所・支店を18年経験しました。中でも印象に残っているのは、平成7年に発生した阪神大震災の復旧・復興事業です。当初は救援班で応援職員の受入れ、資機材・食料の手配、交通船の配船、救援支援活動を行いました。その当時心強く感じたことは、被災された職員及びその家族に対する会社のサポートです。当社の職員が被災地で安心して働けるのは、家庭の安心・安全の確保があってのことです。私が今まで無事に働けたのは、家庭の安定とサポートがあってのことで、妻や子供たちに感謝しています。またそれを支えてくれた会社にも感謝しています。
就職活動をしている学生の皆様は、今後、様々な会社の情報を入手されると思います。会社は入ってみなければなかなか分かるものではありませんし、会社もその方が実際入って一緒に仕事をしてみなければ分かりません。それでも会社訪問や説明会に参加すれば、当社の雰囲気や働いている職員の雰囲気を自分の肌で感じることができます。「百聞は一見にしかず」です。迷わず当社の扉を叩いてみてください。あなたの人生が変わる瞬間が訪れるかもしれませんよ。