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当社発祥の地である兵庫県西宮市鳴尾浜は、大阪と神戸のほぼ中間地点にある。この地域の将来性に大正時代から着目していた山下汽船株式会社社長の山下亀三郎は、西宮市と旧鳴尾村の沖合を埋立て、一大工業港を造ることを目的に1929(昭和4)年7月3日に南満州鉄道株式会社(満鉄)との共同出資で当社の前身である阪神築港株式会社を設立した。
両社は一見接点の無さそうに見えるが、山下社長が満鉄総裁の山本条太郎と偶然に大連行きの船中で出会い、鳴尾埋立事業を山本総裁に話したことが満鉄の事業参画の契機となっており、誠に奇縁であると言える。
満鉄山本総裁は、満州の石炭・鉄鉱石を開発して日本に運び、それまで輸入に頼っていた日本の鉄鋼を輸出に転換し、もって日本の国際収支改善を図ろうという構想を持っており、その構想の実現にとって阪神間のほぼ中央に位置し、銑鉄の一大需要地である尼崎工業地帯に隣接する鳴尾浜はまさに格好の立地条件であったのである。
その後満州事変の勃発などにより、満鉄は当社の経営から手を引くことになったが、個人が創業することの多い建設会社において、ユニークな生い立ちであることは間違いない。
1929年7月3日 | 会社創立、山下亀三郎社長就任 |
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会社設立後は、鳴尾事業の着工認可の取得に全力を挙げたものの、なかなか認可が下りず、船舶を始めとする機材や人材の活用を図るため、請負事業への進出を決意することになる。
その人材であるが、創立と同時に内務省から技師を迎えたほか、技術者2名を加え、技術重視の体制を整えている。当時、莫大な機械設備と優秀かつ熟練した技術者を必要とする大規模浚渫、埋立、港湾工事は、主として官庁の直営工事として行われており、当社が創立時に内務省から人材を得たことは、技術重視の姿勢を示すものであり、後に短時日の間に技術的信用を扶植、拡大していく基盤となった。
1933(昭和8)年3月になって鳴尾事業の工事実施に必要な全ての認可を受け、同年10月に起工式を挙行、創立以来約4年の歳月を経てようやく着工にこぎつけることができたのである。しかしながら、日中戦争の勃発により戦時体制に突入したことから鳴尾事業は不要不急とされ、資金調達も困難になり、ついに1938(昭和13)年11月に工事中断のやむなきに至った。なお、中断していた鳴尾事業の再開は、1966(昭和41)年まで、30年間待たなくてはならなくなったことを付言しておく。
一方で、やむにやまれぬ事情で進出した請負事業であったが、海軍省から請負った佐伯湾約50万坪の埋立てを手始めに、東京飛行場第2次埋立工事(東京市)、四日市造船所船台工事(浦賀船渠㈱、三重県)、谷川工場用地埋立造成工事(川崎重工業㈱、大阪府)、鳴尾飛行場拡張工事(川西航空機㈱、兵庫県)、児島湾埋立工事(立川飛行機㈱、岡山県)などで数々の大規模な埋立工事を受注し、終戦までの期間においてその実績と信用によって現在の当社の土台を形成したのである。
※ ( )内は工事の発注者名、施工府県名
1933年 3月 | 鳴尾工事の実施認可がおりる |
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1933年10月 | 起工式挙行 |
1934年 3月 | 電動ポンプ船「鳴尾丸」進水 |
1934年 5月 | 佐伯航空隊敷地埋立工事着工 |
1942年 4月 | 磯村正之第2代社長就任 |