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オイルショックなどによる不況の波は、事業量が減少した浚渫事業という専門分野依存体制からの脱却と、不況下における少量かつ多様な需要に幅広く対応できる総合化という変革を当社にもたらした。
当時は官民を問わず建築を含んだ土木工事、土木を含んだ建築工事といった発注傾向が増加しており、事業領域の拡大を目指すには当時の建設投資の6割を占める建築への進出は不可欠の状況であった。こうして1976(昭和51)年1月、役員会で建築部門への進出を正式に決定したのである。
建築部門では後発の当社としては、参入期にあっては実績づくりが何より重要である。懸命の努力の結果、同年5月の北海道支店での受注を皮切りに、東京支店(当時)ほか各地で受注に成功、1976年度の受注高は34億円となり、以後同部門は着実に歩みを進めていくことになる。
一足先に進出した海外は、国内受注環境が悪化するなか意欲的に取組みを進めた。フィリピンではミンダナオ島北部の港湾工事やマニラキャビテ埋立工事、シンガポールではチャンギー空港埋立工事、イラクではコールアズベール地区の浚渫工事、アラブ首長国連邦ではシャルジャ浚渫工事などがその成果である。また、1976年7月にはフィリピンに合弁会社「CCT」社を設立し、現地での営業基盤の伸張を期した。
一方、鳴尾事業はこの時期にようやく土地の販売の段階にこぎつけることができ、1975(昭和50)年8月の兵庫県立西宮南高校のグラウンド用地の分譲を初弾とし、西宮市東部総合処理センターなど、公共目的にかかわるものから開始した。
一般分譲については、鳴尾事業部内に「販売課」を設置して販売活動を行うこととし、ついに1978(昭和53)年2月に「鳴尾浜産業センター」として本格的に販売を開始した。
当社設立時の目的であった鳴尾浜の販売はこうして47年もの歳月を経て実現されたのである。
1976年 3月 | 建築部、建築営業部設置(建築部門への進出) |
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1976年 6月 | 藤井八郎社長逝去、社葬挙行。大槻孝治社長就任 |
1976年 7月 | フィリピンに合弁会社CCTを設立 |
1978年 2月 | 鳴尾浜産業センター一般販売開始 |
1978年 6月 | 吉村有二社長就任 |
1979年 7月 | 創立50周年式典挙行、経営理念制定 |
1978(昭和53)年に一般販売を開始した鳴尾浜産業センターは、翌年度に17件の成約を見たのに続き、1980(昭和55)年は14件、1981(昭和56)年に11件など、1984(昭和59)年までの5年間に55件、面積にして471,345㎡を売却することができた。
この時期は公共事業関係予算の伸び率はゼロまたはマイナスが続き、民間建設需要も低迷する「建設業冬の時代」であった。このような厳しい状況下において、鳴尾浜産業団地の売上は当社業績に大きく寄与し、当該事業の売上総利益が全体の20%から30%を占め続け当社の屋台骨を支えたのである。
その一方で、1984年度末には鳴尾浜産業センターは9割以上の販売を終えるなど、ポスト鳴尾に向けて受注の拡大、利益の確保が重要な課題となっていた。
こういったなか、土木ではコンピューターを使った「情報管理施工」の開発や今まで培ってきた技術開発力や企画力を生かした営業を行うなど、受注と利益の確保に努力した結果、不況下においても本四架橋櫃石橋、徳島空港埋立など国家的なプロジェクトに参画することができた。
建築では部門発足後の5年間の実績を土台に、積極的な拡大戦略が打ち出された。単純請負に留まらず、土地持込営業やテナント斡旋、販売提携など当社にとって未知の分野の営業に挑戦し、一つひとつリスクを克服しながら進めていった。その結果、1979(昭和54)年度には62億円であった受注高は、1984(昭和59)年度には302億円と、実に約5倍の伸びを記録した。
その他には鳴尾に技術研究所を開設、遠心力載荷装置や三次元水槽など他社に例を見ない実験装置を設置するなど、今後の一層の成長を期したのである。
1980年 4月 | 東京、北陸、大阪の各支店に建築部を設置 技術研究室(現 鳴尾研究所)に三次元水槽を建造 |
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1980年10月 | マレーシア・ラブアン埋立工事受注 |
1982年 6月 | 小畠輝明社長就任 |
1983年 1月 | 奈良輪機材センター開設 |
1983年 8月 | マレーシア・ラブアン第2期埋立工事受注 |
1984年 3月 | 鳴尾技術センター開所 |
1984年 4月 | 横浜支店開設 |
1984年 8月 | 技術研究室に不規則波造波装置を導入 |
1984年10月 | 塩田ダム本体工事受注 |
1984年12月 | 技術研究室に遠心載荷装置を導入 |