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1985(昭和60)年9月に先進5カ国(日・米・英・仏・西独)により発表されたプラザ合意後、我が国では内需拡大策による公共投資の拡大、公定歩合の引き下げなどが実施された。個人や企業では「財テク」という言葉に代表されるように土地や株式への投資が活発となり、地価は高騰し、1989(平成元)年の大納会では日経平均株価が38,957円44銭を付けるなど、いわゆる「バブル景気」が到来した。
建設投資額(名目)は1985(昭和60年)には50兆円であったが、1987(昭和62)年には61.7兆円、1990(平成2)年には81.4兆円、1992(平成4)年には84兆円と高い水準で推移し、「建設業冬の時代」を乗り越えて建設各社は業容を拡大させていった。
当社も1989(平成元)年度に建築事業で受注額が初めて1000億円に到達し、1991(平成3)年度には総受注高が3000億円を突破した。
この当時、土地を仕入れて建設会社自らが工事を造り出す「造注」がさかんに行われ、当社もゴルフ場開発や宅地造成などを手がけたが、計画の中断や事業主の破綻、その後の地価の値下がりなどにより大きな痛手を被ることになる。
一方、国家的プロジェクトが盛んな時期でもあり、関西国際空港が構想から20年以上を経て1986(昭和61)年に着工され、以後当社は主たるメンバーとして埋立工事に携わったほか、東京湾アクアライン、白島国家石油備蓄基地など後世に伝えられていく事業に参画していった。
バブル景気は一般的に1991(平成3)年2月に終わったとされているが、建設業界ではその後も公共建設投資に支えられ、1993(平成5)年頃までは地価下落に伴う不良資産の増加という時限爆弾を抱えながら、表面上は順調な経営が続いたのである。
1986年12月 | 関西国際空港島護岸築造工事受注 |
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1987年 4月 | 鳴尾事業完成記念碑除幕式 |
1988年 3月 | 東京湾横断道路 川崎人工島工事受注 |
1988年 6月 | 高橋和良社長就任 |
1989年 6月 | アメリカドルワラント債発行 |
1989年 7月 | 創立60周年式典挙行 |
1990年 3月 | 株式会社トマック設立(海上工事直営施工部門を分社) ロワジールホテル那覇新築工事受注 |
1992年 1月 | チャンギー空港埋立工事(シンガポール)受注 |
1993年10月 | 美浦研究所材料実験棟完成、業務開始 |
1995(平成7)年1月17日、阪神・淡路大震災が発生し、兵庫県神戸市を中心に甚大な被害をもたらした。当社発祥の地の近くでおこった大災害に対して、当社は即座に人的・物的支援を行うことを決し、西宮市鳴尾浜に復興事務所を設置、主に船を使って物資などの搬送を行った。また、地震によって壊滅的な被害を受けた神戸港の港湾構造物の早期復旧に業界のリーダーとして取り組んだ。中でも六甲アイランド地区において政府の諮問機関である「阪神・淡路復興委員会」の提言を受けて、緊急仮設桟橋としての桟橋構造岸壁を6ヶ月で概成させた。ほかにも、倒壊した阪神高速道路の撤去など24時間体制で取組み、建設会社としての社会的使命を果たしたのである。
阪神・淡路大震災の復旧・復興工事の発注がピークを迎えた1996(平成8)年を境に建設投資額は減少に転じ、1998(平成10)年には1989(平成元)年の水準を割り込むなどその後も減少の一途を辿ることになった。
このような状況において、有利子負債の削減、不良債権・資産の処分や管理間接部門の合理化などがバブル景気崩壊後の喫緊の経営課題となり、1997(平成9)年11月に450名の早期退職者を募集するという苦渋の決断を迫られることになったのである。
1994年 6月 | 大西章社長就任 |
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1995年 1月 | 阪神・淡路大震災発生 |
1995年 4月 | 美浦研究所構造実験棟完成 |
1997年 1月 | ナホトカ号重油流出事故発生、ボランティアに多数の職員が参加 |
1997年 3月 | セブ埋立工事(フィリピン)受注 |
1997年11月 | 早期退職優遇制度を公示 |
1998年 6月 | 谷田部穣社長就任 鳴尾研究所にドラム型遠心載荷装置を導入 |
1998年 9月 | 川崎T・Sマンション(イクス川崎ザ・タワー)受注(当社初の高層住宅、神奈川県) |