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いわゆる「40年不況」で幕を開けた昭和40年代であるが、政府による公定歩合の引き下げ、財政投融資の増額、大幅な減税や建設国債の発行などの景気刺激策のほか、世界的な好況とも相まって1970(昭和45)年まで「いざなぎ景気」と呼ばれる経済成長を遂げた。
景気拡大に伴って港湾貨物取扱量も想定以上に増加し、船舶の大型化や臨海部への産業集中が進んだ結果、更なる港湾施設の整備、臨海土地造成が急がれたことから、政府は1968(昭和43)年3月には総額1兆300億円の事業規模をもった「第3次港湾整備5ヵ年計画」を策定した。この計画の一部である「臨海工業用地造成事業5ヵ年計画」では、年間1430万坪平均の用地造成を予定しており、この規模は従来実績の約1.5倍で大型浚渫船のフル稼働を予測されるものであり、久しく低迷を続けていた浚渫業界に大きな光明を与えるものとなった。
このような臨海部での土地需要の高まりを受け、当社宿願の鳴尾事業は1966(昭和41)年に再開するに至った。他にも1970(昭和45)年に開催される大阪万国博覧会関連工事も1968(昭和43)年頃から本格化し、民間の設備投資とも相まって建設業界は俄かに活気づき、当社も飛躍のときを迎えたのである。
このような事業環境の好転を受け、更なる業容拡大を目指して社内体制の見直し行ったのもこの時期である。名古屋、福岡(現九州支店)、金沢(現北陸支店)、岡山(現中国支店)、高松(現四国支店)営業所を支店に昇格させたのを始め、1968(昭和43)年に東京本部の設置、1969(昭和44)年に東北支店を開設するなど、北海道を除き(1971(昭和46)年に開設)ほぼ現在のブロック別営業網が完成された。
1965年 5月 | 名古屋、福岡営業所を支店に昇格 |
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1966年 9月 | 鳴尾事業部設置 |
1966年10月 | 資本金17億6000万円に増資 |
1967年 5月 | 鳴尾埋立着工式挙行 |
1968年 6月 | 東京本部設置、金沢、岡山、高松営業所を支店に昇格 |
1969年 5月 | 東北支店開設 |
1969年 7月 | 創立40周年記念式典挙行 |
1969年11月 | 日立造船臨海工事㈱の吸収合併調印 |
当時の浚渫工事の増大に対処するとともに事業基盤の強化を図るため、1970(昭和45)年4月1日に当社は日立造船臨海工事株式会社を吸収合併した。この合併により、ポンプ式浚渫船7隻をはじめとして、各種作業船、機械設備等を引き継ぎ、当社の浚渫能力は8万400馬力と飛躍的に増大したのである。
一方、かねてより工事調査や入札に参加するなど海外工事への取組みを進めていたが、1972(昭和47)年11月にシンガポールでオイルターミナル工事を受注し、ついに海外への進出を果たした。これに続き同年12月にはマレーシアで桟橋工事を受注するなど、海外工事の引き合いが増えたことから、海外を主管する部署として1973(昭和48)年に海外事業部を設置し、海外への取組みを本格化したのである。そして、当社にとって海外の最大拠点となるフィリピン共和国から同年5月にナボタス漁港工事を受注し、同月マニラ営業所を開設、以後40年にわたり工事を通じて同国の発展に寄与していくことになる。
国内では1972(昭和47)年以降物価上昇が続いていたところにオイルショックが発生、「狂乱物価」と呼ばれる様相を呈した。混乱の収拾を図った政府は金融引締策を採り、政府予算を圧縮、特に公共事業費は1974(昭和49)年には実質ベースでマイナスとなり、建設業界は深刻な不況に見舞われたのである。
この時期鳴尾事業は埋立工がようやく峠を越えたばかりの状態で、今後必要とする資金はなお巨額のものがあった。また、一般土木や民間工事の受注増大に伴う立替金の増加もあり資金難に陥ったが、新規取引銀行の拡大や1974(昭和49)年12月の時価発行増資によって資金状況はようやく安定を取り戻したのである。
1970年 4月 | 日立造船臨海工事㈱を吸収合併 資本金30億円に増資 |
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1970年 5月 | 藤井八郎社長就任 |
1971年 4月 | 北海道支店開設 |
1971年 7月 | 資本金45億円に増資 |
1972年 2月 | 鳴尾第1工区竣工認可取得 |
1972年 8月 | 資本金50億円に増資 |
1972年 12月 | シンガポール営業所開設 |
1973年 4月 | 海外事業部設置 |
1973年 5月 | マニラ営業所開設 |
1973年11月 | 鳴尾第4工区竣工認可取得 |
1974年11月 | 鳴尾第3工区竣工認可取得 |
1974年12月 | 資本金74億3000万円に増資 |