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阪神築港株式会社弐拾年誌「社長通達」の箇所
阪神築港株式会社弐拾年誌「社長通達」の箇所
1945(昭和20)年8月15日に終戦を迎えた我が国は、モノ不足と通貨の不均衡によってインフレが爆発的に進行し、家計のみならず国や企業はその日の糊口を凌ぐのに汲々とする状態であった。そのような状況から見て、戦時中に拡充された浚渫船の稼動も全く見込めないことから、同年9月29日に社長通達をもって全従業員に対して今後の去就は各自の判断によるようにとの決意を促す悲壮な意思表明を行った。
こうして職員(事務・技術職)の40%、工務員(船舶・特務職)の55%が会社を去っていった。
またGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって、1946(昭和21)年6月に当社と当社の100%株主の山下汽船㈱は自主的な企業活動を制限される「制限会社*1」に指定され、当社株式は財閥解体の執行機関、持株会社整理委員会の管理に委ねられた。次いで戦時補償の打ち切りにより、戦時補償請求権放棄などによる特別損失は約1000万円に及び、当社は「特別経理指定会社*2」の指定を受け、これを凍結して他日の再建を期すことになった。
制限会社と特別経理会社の指定を受けた当社は、再建整備の計画に取り組み、株式については山下汽船㈱所有の全株を当社従業員ならびに縁故者が引き受け、1949(昭和24)年6月に制限会社の指定を解除された。
また、凍結した特別損失は浚渫船鈴鹿丸の売却に成功し、その売却益をもって消去、同年7月に特別経理会社の指定を解除された。
戦後処理の適切な対応のほか、当社の苦境を救ったのは利根川治水工事の受注であった。1946(昭和21)年3月に工事参加が認められ、浚渫船2隻を回航、就役させることができたことにより、戦後初めて当社に曙光が差し込んだのである。
その他に児島湾干拓工事(岡山県)、網代港修築工事(鳥取県)、伏木港浚渫工事(富山県)、両総用水利根川樋門工事(千葉県)、高知港護岸工事(高知県)などを受注し、徐々にではあるが全国に布石を拡大していくことができ、当社は戦後の熾烈な生存競争に勝ち抜いて存亡の淵から甦ったのである。
*1 制限会社:昭和20年勅令第657号「会社の解散制限等に関する件」によるもので、財閥関係会社等一定会社の任意の解散、資本金の変更、資産の分散、変動等を制限するため、1945(昭和20)年11月「制限会社法」が制定された。制限会社に指定された会社は、資産を凍結され、大蔵大臣(当時)の許可を得なければ、単独ではこれらの権利行使ができない。同年12月、354社が指定され、以後財閥系以外も含め8次にわたり追加指定された。
*2 特別経理会社:戦時補償の打ち切りに関連し、戦後経済の再建整備を企業の経理から促進するため、1946(昭和21)年8月、「会社経理応急措置法」が公布され、戦時補償を受ける権利または在外資産を持つ資本金20万円以上の会社が「特別経理会社」と規定された。指定を受けた特別経理会社は、同年8月11日をもって、新旧両勘定を設け、事業の継続及び戦後の回復新興に必要な資産を新勘定に、その他資産を旧勘定に属させて区分経理し、補償打ち切りは新勘定に波及するのを防止するものであった。次いで同年10月、「企業再建整備法」が公布され、特別経理会社につき、戦時補償打ち切り及び在外資産の喪失などによる損失等を、旧勘定の利益金、積立金などとバランスさせ特別損失を計算し、その負担額を一定の順序によって処理することとされ、特別経理会社は再建整備計画を立案し、主務大臣の認可を受けてこれを実行することとなった。
1945年 8月 | 終戦 |
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1945年11月 | 本店を大阪市西区川口町に移転 |
1946年 3月 | 利根川治水工事を受注 |
1946年 6月 | 制限会社の指定を受ける |
1946年11月 | 鳥取県網代湾に網代事務所を開設 |
1949年 6月 | 制限会社の指定解除 |
1949年 7月 | 特別経理会社の指定解除、創立20周年記念式典挙行 |
この期間はいわゆる「ドッジ・ライン」やドル・円の単一為替レート(1ドル=360円)の設定などによりインフレが収束したほか1950(昭和25)年6月に始まった朝鮮戦争によって特需景気に沸き、昭和30年代の高度成長期に向けて順調に助走を開始した時期であった。
経済環境の好転を背景に、当社の事業は次第に拡大していき、1947年度(昭和22年度)には1億1000万円であった工事受注高が2年後の1949年度(昭和24年度)には約4倍の4億2900万円となり、終戦から僅か5年後に株主配当を復活することができたのであった。
増大する浚渫・埋立需要に対応するため、1950(昭和25)年に浚渫船3隻を増強、翌年には更に2隻を加えるなど、設備の拡充に努めた。また、同年からは新規学卒者の定時採用を実施、社内組織の整備を図るとともに、経理制度の近代化も進めていった。
当時の受注工事は官公庁のほか、富士製鉄㈱広畑(現 日本製鉄㈱)、丸善石油㈱下津(現 コスモ石油㈱)、川崎製鉄㈱千葉(現 JFEスチール㈱)などの工場敷地の造成や港湾浚渫など大規模な工事を次々に手がけている。
また、海上工事だけでなく果敢に陸上工事にも挑んでおり、戦後初の1億円を超える契約高となった尼崎市競艇場(兵庫県)を開業に合わせ施設の大部分を僅か3ヶ月の突貫工事で完成させたほか、鳥取県の嵯峨谷ダムや島根県高角橋の扛上など当社の歴史でも特筆される工事を手がけた時期でもあった。
1950年 3月 | 株主配当復活 |
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1950年10月 | 払込資本金1000万円に |
1952年 8月 | 本店を大阪市東区伏見町に移転 |
1953年10月 | 資本金2000万円に増資 |
昭和30年代に入ると神武景気、岩戸景気など息の長い好景気が続き、我が国は高度成長を遂げることになる。建設業界においても1956(昭和31)年の「港湾整備5ヵ年計画」、1959(昭和34)年の「特定港湾整備特別措置法」などにより、港湾整備事業の計画規模、予算が飛躍的に増大し、いわゆる「浚渫・埋立」ブームが到来した。
港湾建設会社(マリコン)はこぞって大型・高能率浚渫船の建造を開始したが、当社は1957(昭和32)年、他社に先駆け浚渫船「伏見丸(自社設計)」を、翌年には「千代田丸」を建造したほか、2隻の大型浚渫船「松島丸」「太安丸」を長期傭船し、事業の進展に対応したのである。
この時期の事業展開を象徴するものとしては、岡山県水島港の埋立造成工事があげられる。この事業は立地条件に恵まれた水島地区を大規模に埋立て、鉄鋼・石油会社などを誘致するものである。当社はこの事業に全面的に参画し、作業船をフル稼働させ膨大な工事量を順調に消化し、高度成長期の基盤となる臨海工業地帯を造っていったのである。
また、当社の歴史で忘れてはならない出来事としては、1959(昭和34)年9月の伊勢湾台風による長良号遭難事故がある。死者・行方不明者5,098名と明治以降最大の台風被害をもたらした伊勢湾台風は、当社が浚渫工事を行っていた木曽三川地域を直撃し、船舶を死守しようとした大門船長以下6名とともに濁流に飲み込まれたのである。10月になって2名の遺体が発見されたが、残りの4名は杳として行方が知れず、12月になって死亡と判定され、同8日に社葬をもって6名の霊を弔ったのである。なお、三重県桑名市長島町松蔭には1961(昭和36)年に国土交通省(旧建設省)が建立した「伊勢湾台風殉難の碑」があり、毎年命日に花を手向けている。
1955年 4月 | 資本金6000万円に増資 |
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1956年11月 | 東京出張所を東京営業所に昇格、東日本の営業強化を図る |
1957年10月 | 資本金1億2000万円に増資 |
1957年11月 | 電動ポンプ式浚渫船「伏見丸」建造 |
1959年 7月 | 創立30周年記念式典挙行、社歌制定 |
1959年 9月 | 伊勢湾台風により「長良号」「木曽号」「筥崎丸」沈没、6名殉職 |
1959年10月 | 資本金2億5000万円に増資 |
昭和30年代後半も浚渫埋立事業の増加は続いたが、各社の設備増強などから受注競争は熾烈を極めるようになり、当社の浚渫受注高は減少傾向となってきた。このような事業環境のなか、1962(昭和37)年に羽賀正義氏が第三代目の社長に就任し、その就任にあたって「港湾施設事業を主とするも、その他の河川、道路といった一般の工事に対しても手を伸ばしていく」と表明した。ここに、当社は浚渫・港湾専業者から総合土木業者への道を歩みだしたのである。
その一方で、浚渫工事の大型化が進んでいることから浚渫船のスクラップ&ビルドを敢行、1964(昭和39)年に8600馬力、浚渫深度32m、ガスタービン機関などの斬新な装置を持つ、当時として世界最大級の浚渫船を建造し、「第五東開丸」と命名した。このように常に先手々で事業環境の変化に対応していくことで過当競争の中を勝ち残っていったのである。
さて、この期間の大きなトピックとして株式の上場と社名変更があげられる。
当社株式は、役員、従業員及びその縁故者により全株が保有されていたが、大型浚渫船への設備投資など資金需要への対応を含め、将来への飛躍と信用増大、経営近代化への道を拓く意図を持って1961(昭和36)年9月、大阪店頭市場への株式公開に踏み切った。同年10月には大阪証券取引所第2部創設とともに当社株式も上場、その後1964(昭和39)年8月には大阪・東京両証券取引所で第1部に指定され、当社の信用は一層高まったのである。
また社名変更は、浚渫・港湾部門から橋梁・河川・農林等の陸上土木工事への進出を強化する方針が出されたが、「阪神築港」という社名が業種ならびに地域限定のイメージが強く、陸上土木工事獲得の大きな障害になっているという声が高まってきたことが背景にあった。
新社名は「普遍的かつ格調の高い名称を」との方針のもと、「東洋建設株式会社」とすることを内定し、1964(昭和39)年5月28日開催の定時株主総会において承認され、新たな一歩を踏み出したのである。
1960年 5月 | 東京営業所を東京支店に昇格 |
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1961年 7月 | 本店を大阪市東区高麗橋に移転 |
1961年 9月 | 資本金5億5000万円に増資 |
1961年10月 | 大阪証券取引所第2部に上場 |
1962年 5月 | 羽賀正義社長就任 |
1962年10月 | 東京証券取引所第2部に上場 |
1962年10月 | 資本金11億に増資 |
1964年 5月 | 社名を東洋建設株式会社に変更 |
1964年 8月 | 東証・大証とも市場第1部に上場 |
1964年 9月 | ガスタービンエレクトリック式ポンプ浚渫船「第五東開丸」建造 |